日記・コラム・つぶやき

2010年5月19日 (水)

母の死

4月20日から肺炎で入院していた母が5月13日に亡くなりました。
当日まで小康状態という連絡が来ていましたが夜容態が急変したとの事でした。
享年97歳天寿を全う致しました。

14日に松江に帰り、葬儀屋さんお寺さんと打合せをして、15日通夜、16日に松江市の葬儀場での葬儀を喪主として無事に終え昨日帰ってきました。

母を送るにあたって、周りの家族は高齢で知り合いがもうほとんどいないし身内だけの家族葬でという意見が多かったのですが、私は大正、昭和、平成を生き抜いて来た母を母と縁の有った可能な限りの人にお知らせをし送って貰う事にしました。
家内も前々からむしろ積極的に出来る範囲で心のこもったいい葬儀にしたいと言ってくれていました。

心のこもった葬儀とは祭壇を立派にするとか僧侶を沢山呼ぶとかではなく、私の写真の技術を活かし母の子供の頃から最近までの写真をスキャンしA4に印刷して10枚程ホールの前のロビーに飾り、弔問客に偲んで貰いました。
又喪主の謝辞は飾った写真と連動させて母の生い立ちを入れ少し長めに、ショパンの葬送行進曲をBGMにして述べました。

記録の意味も含めて謝辞の原稿をそのまま載せておきたいと思います。

「本日は皆様お忙しい中、母・石橋久美子の葬儀にご会葬・ご焼香を賜り、誠に有り難うございました。
故人もさぞかし喜んでいる事と思います。
母は享年97歳、天寿を全う致しました。

母は大正三年に出雲市天神町の宮司金本陸軍少佐の長女として生まれ、父親の赴任地小倉や満州で少女時代をお嬢様として何不自由なく過ごし、出雲の女学校を卒業した後、昭和10年に平田の本石橋家の石橋正道に嫁ぎました。
農林省の国家公務員であった夫と共に夫の赴任地であった朝鮮の京城に新居を構え、新婚時代から終戦までの10年間をそこで過ごしました。
その間4人の子供をもうけましたが長男を三歳で亡くし、さらに終戦という混乱の中全財産を置いて、私ども幼い3人の子供を連れて命からがら引き揚げて来ました。
この時の苦労話は私が子供の頃何度も何度も聞かされたものです。
母は戦争というどうしようもない生きるか死ぬかというこの時の経験で、生きている事自体が幸せな事で、物事にこだわらないでおおらかに生きるという人生観を身につけたのでは無いかと思います。
戦後ももちろんそれなりに苦労はあったというよりは私ども子供たちが苦労をかけてしまったと思っていますが、5人の子供を育て、大正、昭和、平成の三つの時代を生き抜いて来ました。
母は旅行が好きで平田・灘町の町内会や、女学校の同窓会などで色々な所に出かけておりました。
昭和56年に夫に先立たれたあとも、子供、孫、曾孫に囲まれて安穏に暮らしておりました。
そしていつも子供や孫を笑顔で見守ってくれたぬくもりのある母でした。

今年の4月20日から肺炎になり生協病院に入院して高齢にもかかわらず驚異的な頑張りを見せておりましたが、5月13日に眠る様に息を引き取りました。

生前はひとかたならぬご厚誼にあずかり、今またここに参列をいただきまして、故人もさぞかし皆さまのご厚情に感謝いたしていることと存じます。
これからも時には母の事を思い出してあげて下さればと思います。
皆様のご厚誼に心から御礼申し上げますとともに、母亡き後も故人同様のご厚誼を賜ります様親族を代表致しましてお願い申し上げます。

本日は誠に有り難うございました。」

ロビーに飾った写真も4枚ほど載せます。

1)
Photo
左より兄(私の伯父)、父親(私の祖父)、母親、本人


2)
Photo_2
左より母親(私の祖母)、叔父、本人、叔父、父親

3)昭和10年頃私の父が撮影した母。
Photo_3
父もこの頃写真をやっていて自分で現像・引伸したものが10数枚残っています。
父の撮った写真については又いつか載せたいと思っていますが、私の写真の原点であり目標でもあります。

4)昭和11年頃父が撮影したもの
Photo_4
抱かれているのは3歳で亡くなった長男(私の兄)

写真も、謝辞も皆様から良かったと言われ思い通りに母の葬儀を無事終える事が出来ました。

葬儀の後、斎場での火入れのスイッチを押す時はさすがにグット胸に来ました。

6月末の49日法要が終われば忌明けとなり撮影旅行にも出かけられるかなと思っています。

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2007年9月30日 (日)

退職

本日付けで会社を退社致しました。
最初の会社を定年退社後、第二の会社に8年8カ月お世話になりました。

送別会も三回、お花も頂きました大変ありがとうございました。

明日からいよいよ無職、年金生活者となります。

戦時中に生まれ高校を卒業して東京に出てくるまでが、スタートから第一コーナー
農林省の国家公務員だった父親が勤務していた朝鮮で生まれ、終戦と共に両親は3人の幼い子供を連れて大変な思いをして引き揚げて来ました。
そして出雲の自然豊かな環境の中、友達にも恵まれ、家内との出会いもありました。

学生時代から就職・結婚までが第一コーナーから第二コーナー
東京での学生生活はサークル活動やアルバイトに明け暮れ勉強がおろそかになり悔いの残る時でもありました。
この時期に登った山や、歩いた里、北海道一周旅行などの経験は素晴らしい青春の思いでとなりました。

第一の会社での30数年が向こう正面
電算部門に配属され、社内の業務システムを次々と電算化しました。
このシステム化に携わることで会社の仕組みを幅広く知る事になりました。
販売管理、会計管理、人事管理、生産管理等です。

第二の会社の約9年間が第三コーナーから第四コーナー
前の会社の経験を活かし情報システム部門の管理を担当、一人一台のPC導入、ネットワーク構築、Pマーク取得などの他、前の会社を訪問し仕事をもらう営業的なことも行い成果も上げました。

そしていよいよ第四コーナーを回って最後の直線をゴールに向かってラストスパートする
のがこれからの人生です。

これからは晴耕雨読ならぬ晴写雨詠でいきたいと思っています。
天気のいい日はカメラを持って写真を撮り、雨の日は最近始めた短歌を詠むという訳です。

現実はそんな優雅な生活は出来ないと思いますが、今までより圧倒的に自分の時間が
増えますので、今まで出来なかった昔の写真の整理もやりたいと思っています。

昨日会社から帰った時家内が写真を撮ってくれました。

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頂いた花束と寄せ書きの色紙を玄関で写真に撮っておきました。

フラッシュ無しです。

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内蔵フラッシュを使いました。

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こちらのお花は家に届けられていました。
ありがとうございました。

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食卓の真ん中に置いて家内と楽しんでいます。

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明日はゆっくり起きて国民健康保険に加入する手続きに区役所に行きます。


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